コーヒーカップのお話 その①

いつもアートコーヒーブログをご愛読いただき、ありがとうございます。

今回は、コーヒーを入れる大切な食器、コーヒーカップのお話しをいたします。

皆さんは、どのようなコーヒーカップをお使いでしょうか。

ご夫婦でおそろいの白い磁器のコーヒーカップ。
ざらざらした手触りで、厚みのある陶器のコーヒーカップ
お気に入りのイラストの入った大きめのマグカップ。
小さくて、肉薄のデミタスカップ。
真鍮製のキャンプコーヒー用カップ

…などなど、さまざまな愛用のコーヒーカップが思い浮かぶことと思います。家庭でコーヒーを飲むときには、お気に入りのカップで、ゆったりと楽しみたいものですね。

さて、その中で、ソーサー付きの、今回の短期連載では一般的なコーヒーカップについて、考察してみたいと思います。

コーヒーカップと言われて、大体の人が思い浮かべるコーヒーカップの基本形は、取っ手(持ち手)のついたカップが、ソーサー(受け皿)の上に載せられたものでしょう。ティーカップも部品的には同じセットです。
ただ、あくまで一般論ながら、コーヒーカップとティーカップには形状の違いがあります。普通の場合、コーヒーカップの口径は、ティーカップよりも小さく、全体的に円筒形に近い形になっています。ティーカップは、口径が広いため上に向かって広がるような形をしているものが多いです。
もし、これが世界の趨勢であるとすれば、コーヒーカップの方が、ティーカップより容積が小さいので、コーヒーの方が紅茶より、1回に飲む液体の量が少ないことになってしまいます。コーヒー屋としては、もっと容量の大きいマグカップでコーヒーを出来る限りたくさん飲んで頂きたいという願いがありますが、今の所、コーヒーカップの方が、若干容量が小さく作られている事実は変わりません。

コーヒーや紅茶がヨーロッパに伝わってきた当初は、コーヒーカップとティーカップといった2種類の区別は明確にされてはいませんでした。18世紀初頭のヨーロッパでは、コーヒーも紅茶も、中国製の景徳鎮や、日本の伊万里や有田の茶碗で飲んでいる人が多かったのです。もちろん全員が高価な東洋の陶磁器を使えたわけではなく、極めて上流階級のスノッブな流行でした。
それら東洋の陶磁器は、いわゆる湯呑み茶碗の形でしたので、取っ手のついたカップではありません。指先で茶碗の全体をつかんで持ち上げ、口に運ぶ、日本の湯呑茶碗の飲みかたでコーヒーや紅茶が飲まれていたのです。

ここから、どのように、今あるようなコーヒーカップが作られていったのか、次回に続きます。
さまざまなカップの形
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ロンドンコーヒーハウスの話⑥ 最終回

ロンドンコーヒーハウスの話⑥ 最終回です。

17世紀後半にイギリスで花開いたコーヒーハウス文化は、18世紀に入ると、徐々に大衆化し、同時に衰退していきました。
コーヒーハウスは、いつしか趣味や嗜好を同じくする人々が集まる小さな社交会と化し、現在もイギリスに多く残る「社交クラブ」というものに形を変えていきました。コーヒーハウス勃興期当初の、自由で、平等で、談論風発の場所では無くなっていってしまったのです。そして、当時の民衆の耳目を集めるアイドルだったカタリーナ(キャサリン)王妃は紅茶が大好きで、彼女が住んでいたサマーセットハウスに招かれたお客さんの王侯貴族達は、美味しい紅茶をたっぷり振る舞われていたのです。民衆も次々と紅茶党に鞍替えしていきました。事ここに及んで、イギリス人のコーヒーの飲用習慣は、ティータイムにとって代わられていったのです。

そして、ついにロンドンには1706年、テベロー広場に「トムのコーヒーハウス」という店ができます。この店はコーヒーハウスの名を冠してはいましたが、主に紅茶を出すほぼ紅茶専門店でした。しかも、様々な国から輸入された紅茶葉を取り揃えており、そのブレンドをお客さん自身に選んでもらうという本物志向の店でした。

そして、もう一つ重要なポイントがあります。
この「トムのコーヒーハウス」は、女人禁制のルールを破り、女性客歓迎のコーヒーハウスだったのです。この、男女平等の嚆矢とも言える新時代を切り拓いたコーヒーハウスのオーナー、トムとは、トーマス・トワイニング(1675~1741年)。彼は若いころ、イギリス東インド会社の社員でしたが、独立して紅茶事業を立ち上げ、後にトワイニング紅茶の開祖となった人です。彼は、「トムのコーヒーハウス」で紅茶はいけると見るや、そのすぐそばに「ライオン」という紅茶葉の小売店を開きます。ここも大成功でした。

ここから始まった紅茶を嗜む習慣は、階級を問わず、貴族にもまた労働者階級にも広がり、今でもすべてのイギリス人の生活の中に根付いていったのです。
コーヒーハウスという名前も下火になっていき、代わってティーガーデンという業態が18世紀のイギリスの主流となっていきました。

イギリスは、今でも紅茶大国ですが、1人当たり紅茶消費量は、トルコ、アイルランドに次いで世界第3位です。ちなみに、日本は第9位ですが、イギリスの半分に満たない量です。21世紀になって、何とコーヒーブームに沸き立っているそうです。スターバックスのようなエスプレッソバー型のコーヒーチェーンが流行る一方、サードウェーブ的な本格的ドリップ式コーヒーショップもお目見えしています。紅茶の国なのに、と驚くには価しません。紅茶を飲みだすはるか前から、実はイギリスはコーヒー愛好家の国だったのです。

ロンドンコーヒーハウスの一席、これにて幕といたします。長い駄文に最後までお付き合い頂いた方に深くお礼を申し上げます。

参考図版は、ロンドンにあるトワイニング紅茶の販売店です。

⑨トムのコーヒーハウス
⑩トワイニング販売店入口

ロンドンコーヒーハウスの歴史 その⑤

ロンドンコーヒーハウスの話⑤です。


さて、17世紀後半から18世紀初頭にかけてロンドンを席捲したコーヒーハウス・ブームでしたが、そこで飲まれる飲み物は、徐々にコーヒーではなくなっていきます。
イギリスは、この頃から紅茶の国へと変わっていったのでした。

実はイギリス人が紅茶を飲むきっかけとなったのも、ロンドンのコーヒーハウスだったのです。
イギリスで最初にお茶が売られたのは1657年ですが、それはまだ「東洋の秘薬」としての薬事使用でした。紅茶がコーヒーと並び称せられる嗜好飲料として、イギリス人の前に現れ、好まれるようになったのには、やはり、前回のお話に出てきた、コーヒーハウス禁止令の王様チャールズ2世(1630~1685年)が大きく関与していたのです。

チャールズ2世は1660年の王政復古後、イギリスとの国家間同盟を望んでいたポルトガル王国から政略結婚で嫁取りをすることとなりました。嫁にやってきたのは、ポルトガル国王ジョアン4世の次女、カタリーナ・デ・ブラガンサ王女(1638~1705年、英国名はキャサリン・オブ・ブラガンサ)です。
イングランド国王へのお輿入れですから、ポルトガル王国がカタリーナにもたせた持参金は生半可なものではありませんでした。当時ポルトガルが持っていた植民地の、北アフリカのタンジールと、インドのボンベイが、持参金の一部となりました。
そしてそれ以外にも、カタリーナは嫁入り道具を運ぶための貨物船を用意し、当時の貴重品である中国の茶葉と、砂糖を大量にその船に積み込んでイギリスに持って来たのです。カタリーナ王女は、キャサリン王妃となって、毎朝、紅茶に砂糖をたっぷり入れて飲むというゴージャスな習慣を英国王室にもたらせたのです。

そのお茶を初めて嗜好飲料としてイギリスの貴族や、商人や、文化人に飲ませたのが、ロンドンのコーヒーハウスだったわけです。

そして、カタリーナ王女の持参金だったインドのボンベイを拠点の一つとして、イギリスは、カルカッタ・マドラスといったインドの拠点を強化することができました。インド航路に次いで、ジャワ・マレー・タイをもその貿易活動のテリトリーにくわえていきました。東南アジアへの進出の中心的役割を握っていたのが、有名なイギリス東インド会社です。チャールズ2世の王政復古時代、1670年代から1680年にかけて、イギリス経済は三角貿易に支えられて空前の好況となったのでした。
1671年から1681年の10年間で、イギリス東インド会社が支払った配当金は、利回りで累計240%、1691年までの次の10年間の利回り配当は累計450%となったそうです。その配当の源泉は、香辛料・茶・綿でした。

この時代、イギリスにはまだ自国製のコーヒーはありません。アラビア世界の門外不出の植物であったコーヒーの樹を密かに持ち出して植民地での栽培にチャレンジしようとしていましたが、セイロンで病害のためコーヒーの樹が全滅、コーヒー栽培においてはオランダやフランスに大きく後れを取ったのです。しかし、コーヒーはありませんが、イギリスには、インドやセイロンに豊富なお茶畑がありました。イギリス人が、自ら供給能力を有し、直接貿易ができる嗜好飲料と言えば、圧倒的に紅茶だったのです。

17世紀後半から18世紀にかけてイギリスの茶葉の貿易を独占したのはイギリス東インド会社です(独占廃止は1813年)。この取引の利益が、後世の大英帝国繁栄の基礎となったと言っても過言ではないでしょう。

きょうの図版は、カタリーナ(キャサリン)王妃です。23歳で8歳年上のチャールズ2世の元へ嫁いで来ています。しかし、旦那のチャールズ2世は度外れた艶福家で、14人の愛人がいて、認知された庶子が14人いました。カタリーナには最後まで子供ができませんでした。あまり幸せな結婚生活ではなかったと思います。その不幸な感じは、私にはダイ××皇太子妃を思い起こさせます。カタリーナはポルトガル人で、熱心なカトリック信者で、王妃の戴冠式がイギリス国教会で行われることになっていたため、戴冠を拒否したそうです。宗教を理由に戴冠を拒否した王妃はイギリス史上この人だけです。

長くてすみません。次回に続きます。次回やっとの最終回。




⑧カタリーナ王女





ロンドンコーヒーハウスの歴史 その④

ロンドンのコーヒーハウスの話④です。



1646年のピューリタン革命の余波の残る17世紀後半、当時流行の最先端であったロンドンのコーヒーハウスでは、男たちがコーヒーを飲みながら、政治を熱く語り合っていました。論争の太宗は、正義を信奉し、権力を批判するという、自由な言論でした。


その折りも折り、スチュアート朝のチャールズ2世(1630~1685年)は、亡命先のオランダからイギリスに戻り、王権の復活を目指し始めます。彼は、チャールズ1世の息子でしたが、ピューリタン革命の内乱において、国王軍の敗色濃厚なのをみて、最初はフランスに逃げ、その後、スコットランド国王に指名されスコットランド・オランダ等でしばらく暮らしていたのです。1649年、チャールズ1世は、処刑され、王政廃止となりました。しかし、ピューリタン革命で始まった共和制は、革命の指導者だったオリバー・クロムウェルの独裁で、また別の圧政時代をイギリス国民にもたらしただけでした。1658年のクロムウェルの死後、その軍事独裁政権に不満を募らせたイギリス国民は、チャールズ2世がイギリスに戻ることに抵抗せず、1660年、ここにスチュアート朝の国王制度が復活します。


この王政復古は、絶対王政への回帰ではありませんでした。1660年、「内戦中の行動についての大赦、土地購入の確認、信仰の自由の保証」という3点をチャールズ2世と議会が承諾。議会の権限を国王チャールズ2世が尊重するというのが、王政復古の条件となったのです。国民の基本的人権を尊重しつつ、国政は議会と国王がパラレルに覇権を握る、という考え方でした。

王政復古後、クロムウェルの墓は暴かれ、30名の革命首謀者は死刑となりました。また、議会の上院・下院が復活し、1661年5月に下院選挙も行われたのです。265の選挙区から、507人の議員が選出されましたが、その大半は国王派だったといわれています。

ここからチャールズ2世は、絶対王政の復権を目指すようになり、また国王の権利を限定しようとする反国王派が国民の多くの支持を受け、両陣営は激しく対立するようになります。

チャールズ2世は、カトリック信者となり、カトリック教会を復活させようとしていました。一方議会はイギリス国教会を支持していました。チャールズ2世は、正妻のカタリーナ(英名キャサリン)王妃に子供が無かったため、自分の弟で、同じくカトリック信者のジェームズ2世を次期国王としようと画策します。
この後継者争いをめぐって、議会では、トーリ党とホイッグ党という2大政党が生まれます。トーリ党はジェームズ2世の王位継承を容認、ホイッグ党はそれを拒否していました。


このトーリ党とホイッグ党も、コーヒーハウスで生まれたものと言ってよいでしょう。コーヒーハウスを論戦の場所とし、国家と政治を論じる中で思いを一つにした人々が政党を形成していったのです。議会の勢力が大きくなり、政党政治が主流となり、王政が危うくなることを懸念したチャールズ2世は、1675年、ついにコーヒーハウス禁止令を国内に発令したのです。


ところが、コーヒーハウスは既にロンドンっ子の生活に根付き、情報・文化・商業の中心的役割を担っていました。政治論議をしているだけの場所ではなく、実業の現場でもあったため、おいそれとコーヒーハウスを無くすことはできなかったのです。当時、コーヒーハウスに反対していたのは、コーヒーハウスに出入りすることができなかった女性達と、そしてチャールズ2世だけでした。

イギリスの男たちは、コーヒーハウス禁止令に猛反発。そして、時代は、中世の絶対王政には戻ることはなく、国王の禁止令も公然と破られ、コーヒーハウスは存続を続けたのです。この議会政治の流れは、やがて、名誉革命と呼ばれる無血革命へとつながっていくのです。

言ってみれば、ロンドンのコーヒーハウスは、近代民主主義を生んだ揺りかごでした。
18世紀のイギリスの詩人アレキサンダー・ポープ(1688年~1744年)は「コーヒーは政治家を賢明にする」と述べています。コーヒーハウスで議論に明け暮れ、王政から議会政治への流れを作っていった、イギリスの下院議員たちのふるまいをみて、この言葉を思いついたと言われています。

この人がチャールズ2世です。この人には色々な伝説がありますが、無類の愛犬家で、飼い犬と戯れるあまり、国政をおろそかにしたとも言われています。キャバリア・キング・チャールズ・スパニエルという 犬種名の由来となった王様なんですね。
次回に続きます。





⑦チャールズ2世









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ロンドンコーヒーハウスの歴史 その③

ロンドンのコーヒーハウスの話③です。



イギリスにおけるコーヒーハウスの流行は、当時のイギリスの歴史的背景と不可分の関係にありました。
コーヒーハウスでは、コーヒーと共に砂糖が消費され、またタバコも愛飲されていました。これらコーヒー・砂糖・タバコは、イギリスが三角貿易を通じて海外から輸入していたものです。


またコーヒーハウスには、様々な階級の人がつどっていたため、国内の情報ばかりでなく、イギリスが誇る海外植民地からの海外情報も、集まってきていました。政治・経済・文化など最先端の情報を交換する場所としてコーヒーハウスが大きな役割を担うようになりました。
そして、当時少しずつ世の中に広まっていた、新聞・雑誌などの普及にもコーヒーハウスは貢献したのです。当時、印刷術の発達により、ヨーロッパでは新聞や雑誌の刊行が可能となっていましたが、1部当たりのコストが高く、簡単に庶民に手が届くものではありませんでした。



しかしながら、コーヒーハウスに集まる中間市民層は、文字の読める知識階層でもあり、彼らのために、コーヒーハウスでは、新聞や雑誌を店内に置き、誰でも閲覧できるようにしていました。彼らが求める海運ニュースや、内外の政治経済情報を日刊で掲載する新聞は、まさにコーヒーハウスで読まれるようになったのです。コーヒーハウスは一種の情報センターでした。逆に言えば、イギリスでは、日刊新聞や雑誌は、コーヒーハウスの読者需要によって発展したのです。


また、ロンドンにはエリザベス1世時代の1571年に、商品を売買する取引所が作られていましたが、1666年にロンドンで大火事が発生しその取引所は焼けてしまいました。その後取引所は再建されましたが、商人たちは、商売を取引所では行わずに、酒場やコーヒーハウスで行うようになります。コーンヒルにあった、ギャラウェイ・コーヒーハウスでは船舶の売買が競売で行われていました。その他、コーヒーハウスで行われていた取引は、砂糖、コーヒー、木材、スパイス、茶などです。
ジョナサン・コーヒーハウスという所では、株式の取引も行われていました。


1688年に、ロンドンのシティ近くで開店した小さなコーヒーハウスに「ロイズ」という店がありました。エドワード・ロイドという人がオーナーです。ロイドの店、という意味で、ロイズと名付けられたのです。この店にも、商人や船員たちが一服のコーヒーを嗜むために、毎日集まるようになりました。ロイド氏は、店を訪れるお客さんたちが求めているのが海運に関する情報であることを知り、独自に海事ニュースを発行することにしました。この海事ニュースも評判となり、世界の海運に関するニュースが無料で手に入るということから、いつしか「ロイズ」には海上保険会社の社員たちが出入りするようになりました。そして自然発生的に、「ロイズ」の店内で、保険引受け業者の相互取引が行われるようになったのです。

店主のロイド氏の死後も、保険業者達が資金を出し合って人を雇い、コーヒーハウスを続けました。コーヒーハウスというより、保険取引所としての存在感が増しましたが、名前は「ロイズ」のまま残されました。これが、「ロイズ保険組合」の始まりです。
この「ロイズ」は、今でも世界最大の保険組合となって、世界中の保険の再保険を引き受けるという業務を日々続けています。現在の英国の誇りある仕事の一つとなっているのです。


もうひとつ、ロンドンのコーヒーハウスがもたらしたもの、それは海外郵便制度です。イギリスは17世紀後半、まだ郵便の戸別配達制度は確立していませんでした。1680年にウィリアム・ドックラが1日1ペニーで個別配達をするペニー郵便を創設しましたが、官営の郵便制度を保持するイギリス政府に排斥され、1683年に廃業させられてしまいました。結局、一般郵便は、ホテルかコーヒーハウス気付けで留め置きとし、そこに宛先人が取りに行くことになっていったのです。この仕組みはロバート・マーレイという人が考案しました。コーヒーハウスは特に外国向け船舶郵便物の配送・引き渡しセンターとしての役割を果たすようになりました。海外航路の船長たちが、出向前にコーヒーハウスを回って郵便物を集めるのが常態となり、私設郵便局のような形となっていったのです。


こうして見てくると、イギリスのコーヒーハウスは、17世紀、発足から、ジャーナリズム、商品や株式の取引所、保険組合、郵便窓口といった様々な社会インフラストラクチャーの役割を果たしていたことがよくわかります。


イギリスの近代化と国際化は、コーヒーハウスによって成し遂げられたと言っても、決して過言ではないのです。

次回に続きます。




参考図版1は、17世紀のロイズコーヒーハウスを描いた絵、図版2は今も残るロイズの鐘(ルーティンベル)です。世の中で不幸な大事件が起こると鐘は1回、 幸せな出来事だと2回鳴ります。タイタニック号遭難の時には1回、最近ではキャサリン妃出産の時に2回鳴ったそうです。


65⑤ロイズコーヒーハウスの様子
参考図版1




80⑥ロイズ保険組合の鐘
参考図版2



53⑤-2 ロイズコーヒーハウス碑















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